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現代の水子地蔵建立の隆昌は、愛欲と怨念の恐れという世相を反映した流行とみることができますが、堕胎は平安期の貴族の間でも行われ、鎌倉室町時代はいうまでもなく明治以降まで公然の秘密として行われてきた悪習であったのです。
農村にあっては、領主の過酷な年貢の取り立てによって生活が困窮化していたときに、育てたくともその余力がなく、間引きが行われたのは大人が生き延びるための因習の一つでもあったといえます。間引きの方法はいろいろありますが、水に濡らした和紙を生まれたばかりの嬰児の口に当て窒息させたり、石臼の下で圧殺するなどして間引いたのです。しかし、現代の堕胎とは異なり救いがありました。すなわち、間引きのことを「もどす」「かえす」「うみながす」といったのは、「子供は神からの授かりもの」であるから神にお返しをするとする信仰に支えられていたのでして、罪悪観は今日とは異なるものだったのです。このことは、先祖の命日や祭礼の日に生まれると功徳日に生まれたといって、間引きを免れたことからもうかがうことができます。東北地方の「こけし人形」の「こけし」も「子消し」と解釈される説もあり、永劫の闇に葬られた悲しみの表現とも受けとることができます。
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