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一方、今日の退廃的な堕胎の原型は江戸時代にみることができます。江戸時代の町民生活においては、性を享楽の対象とする退廃文化の隆昌のかげに、「ややおろし」の看板が掲げられ、「自由丸」なる堕胎薬も生まれています。幕府では正保三年(1646)に子おろしの禁令がだされ、寛文七年(1667)にはさらにきびしい禁令がだされるほどで、華やかな元禄文化においても公然の秘密として堕胎が行われたのでした。寛政五年(1793)9月28日回向院(現、東京都墨田区両国2−8)住職第十二世の見蓮社在誉巌隆(けんれんじゃざいよがんりゅう)上人の建立した水子塚は地蔵のレリーフの下に水子塚と刻まれ、石塔の面は百八の煩悩をあらわす百八数珠で囲まれ、当時一万体の水子の供養のために建立されたといわれます。
私たち人間には、これから生まれてこようとする生命を摘みとる権利はないはずです。万止むを得ず堕胎せざるを得なかった事情があれば、心から水子の霊を供養することは、み仏の心に叶う行為といえるでしょう。
しかし、水子の霊が祟っているといって、その怨念を鎮めるために水子地蔵尊を建立するのでは、トランキライザー的な精神的解消作用に終わってしまいます。堕胎が若気の至りでの行為であれば、静かに反省し、水子を供養することによって、それを契機に信仰にめざめていただきたいと願わざるを得ません。
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